フォロワー!政治議論の時間だよ!フォロワー!!ねえ!フォロワー!!!

最近、Twitterでは、コロナとそれを取り巻く政治・メディア、コロナの感染者数を皮切りにした日本と他国の違い、果ては有名人のSNS誹謗中傷問題…など、つとに政治系の話題が多くなっていると感じている。

 

とても大雑把に”政治系”とまとめてしまったけれど、いうなればこれは、人によって0にも100にも見え方や意見が異なってしまい、そして結論が出ない話題のことを指す。

通常、議論というものは、なにがしかの論拠や間違いなく信頼のおけるデータなどによって、当初は意見がまったく異なったとしても、繰り返すうちにお互いがある程度近しい方向を向くことができるものだ。

だからこそ議論には意味があるし、これだけ長い人類の歴史で採用され続けてきたのであろう。

にもかかわらず、”政治系”の話題が一向に意見の差異が縮まらず、また何度繰り返しても終わらないのは、ひとえに話題の大きさゆえだ。

メタ的な観点の話題であるゆえに、身近な肌感覚の論拠は存在しえない。また、仮にデータを引っ張り出すにしても、カバーする範囲が大きすぎて、一庶民に簡単に扱えるものではないのだ。

 

さて、よく「政治と宗教と野球の話はするな」と言われる。

この格言そのものは、相手と意見が違えばほぼ確実に分かり合えない話題は避けよ、という点でとらえれば、まったくその通りと思う。

ただ、ぼく個人としては、厳密には政治と残り2つは分けて考えるべきだよなあ、と感じている。

論理としては少々雑になるが、宗教と野球は、意見の相違を埋めないまま互いに不干渉を貫けばよいし、それで実害が生じることも(宗教と政治が密接に関連していた中世・近世以前ならいざしらず)現代においてはそうそうない。

一方、政治は、人間が国家という集団を形成して生活していくうえでの舵取りになる。舵を左に切るのが好きな船頭と、舵を右に切るのが好きな船頭をそのまま好きにさせていれば、船自体が座礁したり沈んでしまうことにも繋がりかねない。

複雑になるし終着点がないから政治の話は絶対にやらない、政治には無関心を貫く、という人もいる。

それはそれで結構とも思うが、こんな言葉がある。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった”

マルティン・ニーメラーの言葉より

だから、多かれ少なかれ政治の話は他者と交わすべきである、とぼくは信じている。

 

話を戻そう。

政治系の議論を最近つとに目にすること、政治系の議論には終わりが見えづらいこと、そしてその理由は議論の規模に対して論拠が物足りないことを挙げたと思う。

そして一方で、政治系の議論に対して無関心を貫くのではなく、他者と政治の話を交わしてほしいと記した。

なんとも矛盾するように見えるかもしれない。しかし、それこそがぼくの伝えたいことなのである。

 

最近つとに政治系の議論を目にすること自体は、(現時点で表出している醜さはさておくとして…)そうした話題に少なくとも無関心でないという点で、ぼくは歓迎すべきことだと思っている。

関心を持って政治の議論に乗り出してくれて、ありがとう。

では次のステップとして、上に述べたような政治の議論の難しさを理解して、0か100かを決めようとしない議論を目指してほしい。

 

SNSの政治議論の良くないところは、身近な肌感覚を突然一般化して論拠にしようとしたり、そのデータをその文脈で扱うのが正しいのか怪しいものを取り上げたりして、0か100かの二元論に落とし込もうとする煽動者が多いことだ。そしてそれに安易に踊らされ、恐怖と憎悪を拡散する人の多いことだ。

「マスコミの誰それが×××と言っていた」という、そもそもそれ自体が真偽の判別のつかないようなことを論拠にして、「だからマスゴミは~~~」と一般化する、こんなことがまかり通ってしまう。

データにしても同じだ。数字はウソをつかないが、データは使い方によってはいくらでもウソをつくことができる。「タウリン1000mg配合!」と言われれば多そうに感じてしまうのと同じで、そのデータは本当に信頼に値するものなのかは慎重に吟味する必要がある。

こうしたウソがSNS上の政治議論には溢れかえっている。そしてそのウソをお互いに糾弾しあったり、果てはウソでないことさえウソ扱いし始めて、感情的な言い争いに堕してしまう。こうなったら、もはや議論ではない。

 

こうならないように、ウソをウソと見抜けるようでいてほしい。

怪しいデータのカラクリを察知して疑える知識を持っていてほしい。

そして何より、議論の相手に敬意を持ち、論拠もなく感情的に攻撃するようなことはしないでほしい。

その先に、あるべき”政治系”の議論の形があるはずだ。

 

複雑で終着点がないような議論こそ、きちんと会話を交わし、お互いの見地を認めつつ指摘しあえれば、自分の見識を広げられるし、また相手にもいくらかの刺激を与えることができるのだから。