人と人がつながるということ

すみだです。

昨日久方ぶりに物申す系ブログを書いたところ、思わぬ反応の良さに気を良くしました。

…が、年がら年中あんな熱量でブログを書けるほど、私は気力豊かではありません。

なにより、あんなものを毎日のように書いていたら、それこそ性根の歪んだ人間ですよ。

てなわけで、今日はぼくが尊敬する人のことでも書いていきましょう。

といっても、特定の個人ではないので、ご安心を。

 

以前もこのブログで書いたことがあったような気がするのですが、ぼくは歴史上の人物で

尊敬している人物はいません。

何故ってそれは簡単な理由で、「自分が会ったことがなく、人となりが分からないから」です。

 ひっくり返すとお分かりになると思いますが、自分が会った人で、その人となりを

肌で感じた人であれば、尊敬の念を抱くことが往々にしてあります。

それは、「自分には出来ない」だとか、「自分はそこが苦手だ」と感じることを、

自然にやっている他者を見かけたときに湧いてくるものです。

  

例えば、聞き上手な人であったり、話の要点をまとめるのが上手い人。

ぼくと喋ったことのある人であればよくご存じでしょうが、ぼくは基本的に自分がクソ喋るし、

話の要点はスリムにまとまってないので話が長くなりがちです。

もちろん、クソ喋るのも、話が長いのも、状況によってはいい方向に働きますし、

基本的にあまり喋らない人が多いTwitter界隈だと、リアルで会った時にすごく役立ちます。

が、それはそれ。状況に合わせてスタイルチェンジしたいとも思うのです。

  

あるいは、「友人としての諫言」をストレートにできる人。

これはちょっと特殊で、ぼくはわりとこれを意識的にやる側なのですが、

一方でこれをぼくにぶつけてくる人はほとんどいません。

 

大事なのは、「非難・批判」ではなく、「諫言」である、ということです。

ぼくは中国史を専攻していましたので、当時の皇帝や権力者に対する配下の諫言を

いくつか知っていますが、諫言というものは、行う側にも相当な勇気を必要とし、

また受ける側にも度量が求められる行為です。

 

今では当時とは違い、諫言を容れられなかったからといって命を取られることは

ありませんが、それでも、

「この言葉を投げかけて嫌われることはないだろう」という自信と、

「この言葉を投げても相手が聞き入れてくれるだろう」という信頼の両方が必要です。

そのハードルを超えてまで投げかけてくれる人を、ぼくは軽んじませんし、

むしろ尊敬します。

もしあなたの周りにもそんな人がいるのであれば、大事にしたほうが良いと思うのです。

 

ややもって長くなってきてしまったので、最後にひとつを挙げておしまいとします。

最後は、「好きでもない目標に向けて自然に頑張れる人」です。

ぼくは興味を持ったことに対してはすんなり前進できると自負していますし、

特に強烈に刺さったものに対しては、エンジン全開で突き進むタイプです。

が、興味が一切ないものについては、全くと言っていいほど推進力がありません。

「やらなきゃならない」になるまでは、「やったほうがいい」の間は、

のらりくらりと逃げ腰でいます。(だから浪人した説が濃厚です)

こんな人間なので、「やったほうがいい」レベルの目標に対して自然に頑張れる人は、

常日頃からすごいなあ、真似できないなあ、と思って見ています。

  

さて、自分が苦手なこと・できないことを自然にやっている人をぼくは尊敬しますが、

ぼくとて、指をくわえたままのんべんだらりとしているつもりはありません。

そのうちお前の良い所を見て盗んでレベルアップしてやるからな、と思っています。

 

このブログを読んでくれたあなたが、ぼくのことをどう感じているかは分かりませんが、

ぼくに対して「すごいなあ」だとか、「俺には出来ないなあ」と思っていることが

もしあれば、あなたもぼくを見て好きに盗んでいってください。

人間と人間が相互に作用し合うことの醍醐味って、こういうとこじゃないでしょうか。

 

ほな、また…。